自己啓発書とスピリチュアルの違い

このテーマについて言葉を使って書けるようになったのは、つい最近な気がします。

自己啓発書の例として、「働くプロの心の整理術」(永野慶太著)を取り上げます。

この本では、悩みの対処法として、

  1. 悩みを紙に書き出し、客観的に見る
  2. 元気なうちに、落ち込んだ時の「救済リスト」を作っておき、やる
  3. 暴れている心に手を付けずに、自分ができることをする
  4. イライラしたら部屋の温度をさげたり、冷たい水を飲む
  5. 言い訳をせず「原因」に注目する
  6. 毎日ひとつ、心を乱されたネガティブを反省する
  7. 自分によい質問をする「この悲しみを私はどう利用したらいいだろう?」
    答えはそのうち脳が見つける
  8. 「ああ、ありがたい」と唱えて、ありがたい対象を見つけろ

これらがいかに、悩みをなくせない方法であるかを考えたいと思います。

最初にお断りしておきますが、たまたまこの本が手元にあり、著者に恨みがあるわけでもなんでもありません。
ただ、左脳主義の代表として取り上げます。類書は多いですから。

これを見て、2,3,4は対症療法なので、取り上げません。感情が高ぶっている時には、エネルギーを「ベント」
してみたほうがいいでしょう。

1から順に考えてみます。
悩みを紙に書き出すこと自体は悪くはないことですが、「客観的に見る」こと時点、そもそもムリです。
会社で自分に迷惑をかける人間がいる。「客観的に」見れば、彼・彼女が悪いのである。
しかし、彼・彼女の立場からすれば、あなたが悪い。
世の中はこれが普通だからこそ、争いや裁判が起きるのです。「盗人にも三分の理」というヤツです。
つまり、悩みリストを「客観的に」評価できると思っている時点で、この話はないのです。

じゃぁ、どうするのか?もしやるのなら、自分の思い込み、バイアス、偏見を認めた上で悩みを書くのです。
だから、原因まで言及し、自分を犠牲者にしないことです。

次に5を見ましょう。これまた19世紀に終わりをつげた、ニュートン力学です。この「原因と結果」という言葉にどれだけ多くの人が犠牲になっているでしょう。
社会の事象のみならず、物理現象でも「原因があれば、その結果が生じる」というのはすでに崩壊しています。なぜならば、原因がそんなに単純がないことが普通だからです。
自然科学の科学者のもつ世界を見る時の哲学で、100年以上もたっていまだに世の中に広がらないモノの見方も珍しいな、と思います。
卑近な例えを使うなら、パチンコがよいかも知れません。世の中の人のモノの見方だと一定の力で一定の釘を目指して打てば、一定の場所に必ず鉄球は落ちるはずだ。なぜ、そうならないのだろうか?
じゃぁ、絶対に入賞しないかというと、それは法律の縛りがあるので一定の確率で入賞します。
そう、確率こそが世の中を見る鍵なのです。

別の例えを使うなら、不幸にして子供を失った親が「なぜ、うちの子が?」と因果関係を求めます。気持ちはわかりますが、若年の死亡が因果関係ですべて説明つくならば、生命保険は成り立たないのです。
つまり、仮に起きた不幸の原因がわかっても、なぜ、それが「あなたに起きたか?」は理由は単純な一行で書ける因果関係では求められないということです。

6においてネガティブなことが心を動かしたら反省する。原因を許す。それはキリスト教徒なら理解できますが、ほとんど宗教の素養のない日本人には理解できないと思います。なぜ許さなければならいのか?おそらく日本人には、許す=諦め、にしか捉えられないかと思います。このように安易にキリスト教圏の欧米の書物を引用すると、なんの役にもたたないことは、心の問題ではしばしばあります。
また、ネガティブを「観察」することは重要です。誤ったポジティブシンキングは身を滅ぼします。

ひるがえって、7や8は、今までの左脳主義とは異なり完全にスピリチュアルな見方です。

なぜ、自己啓発書は、こんな矛盾に満ちた本になるのでしょうか。それは左脳で考えれば、答えがわかると思い込んでいるのに、「怒り」という感情の前に論理が破綻してしまうからです。

もともと、悩みをもたない人がいないことでもわかるように、悩みに客観性などないのです。
悩みが出てくる理由は、自分のエゴと現象をコントロールできない苛立ちです。
極論すれば、自分が消えれば悩みは消えますよね。

とはいえ、自分が消えるわけにはいかないので、変わりに別の人のような考えをすると大半の悩みは解決することになります。
それは客観である必要はありません。客観を語る人が、「自分の周囲の環境は鏡だ」などといってはいけません。

自分の思想を支えている思想を変えることです。

身近で思考の変化を見ることができるものとして、今の日本でもなんとなく生き延びている考えに「もらう愛から与える愛への変化」というものがあります。
若者の悩みの多くは「~~してくれない」があります。自分で線を引いて、その線の外は誰かがしてくれるものなのだと考えてしまう。親、友達、先生、などがしてくれたことが社会ではしてくれない。なぜ?
逆に「~~してあげる」ということを、一般の人は子供をもつと学びます。(その人の親が壊れているとどうしていいかわからないかもしれない)
すると線引きがずいぶんとかわります。所詮、自分でやらなきゃ誰もやってくれない、と悟ると悩みが消えることもあります。

悩みを作り出している思考を変えない限り、悩みは消えないのです。「なぜ」「どうして」と考えても同じ思想上に答えはないのです。
つまり、どんなに邪悪な思想をもっていても、結果は同じだという物質主義では難しいのです。

この本の著者は、わからないなりに他の本を見て悩みのない状態を作り出すには、「自分が自分の世の中を作り上げている」という思想に至らないと悩みは消えないということと、「自分がすべての造物主であるならば、責任回避するわけにいかないし、作りだせる自分の能力と与えてくれた神への両方への感謝が生じる」ということを読んだのだと思います。

しかし、この思想は著者のように「アホな上司はこう追い込め」などという他人を自分の一部として見ることができないレベルの心の持ち主には、理解できない思想だったということです。

このように自己啓発や心理学は、対症療法はおもしろいものがあるのですが、ひとつレベルが深くなり、その人が世の中をどう見ているかということで現象の把握の仕方の変わる世界では、エゴイスティックな著者の未成熟な心が馬脚を表してしまうのです。

そして残念ながら、世の中を動かす原理は頭では理解できないのです。それはスピリチュアルな(言葉を変えると、人間力を育てる)世界で体感するしか方法がありません。
もっとも宗教色がない、といわれている禅宗ですら、座禅し体感することでしか得られないとしているのです。
だから、体感した人の言葉を聞いても参考になれど、伝えている意味を理解することはとても難しいのです。
なぜならば、言葉にない概念だからです。

考えればなんでも理解できるという誤った「支える思考」を中心としている限り、世の中を正しく認識することはできません。エゴを増大するだけです。

あえて表現すると「神」とか「愛」とかにしかならないのですが、こう書くと短絡的に「宗教」と反応する人が多いため、本当の心の育て方は難しいし、左脳でなんとかできるという誤った方法が跋扈するわけだと思います。

投稿者: たかお

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