カトリックとメダイ、護符
メダイ(マリア像のある小さなメダル)について書こうと思います。
その前にキリスト教の極めて基本的なことから書きます。
もともとのキリスト教はカトリックです。しかし日本の大多数の教会はカトリックではありません。プロテスタントです。
日本でカトリックとしてなじみがあるものは学校が多いです。上智大学、白百合女子大学、聖心女子大学、ノートルダム女子大学、暁星中高等学校など。
学生のころしっかり勉強した方ならご存知のとおり、プロテスタントとは15世紀の宗教改革でカトリックから分派したキリスト教です。王は現世を支配し、カトリックの長であるローマ法王は魂を支配するという考え方がヨーロッパ中世の基本的な考え方でした。
それはおかしいと聖書をよりどころとして分派した人々を一括してプロテスタントといいます。もっとも有名なのはルター派ですが、他にもいろいろたくさんあります。悪名高い統一教会もそのひとつと分類上は数えます。
しかしながらカトリックはキリスト教の主流として厳然と残り、ヨーロッパに見るほとんどの教会建築はカトリックのものです。
なぜそこまでの権力があるのか?
イエスの弟子のうち、パウロがイエスから天国の鍵をもらったところから法王制度が始まり、キリストの直系だとみなされてるからです。宗教画でしばしば鍵が描かれますが、それは天国の鍵という重要な意味をもちます。
ちなみに昔の西洋絵画は大半が寓意でできていますから、描かれているものがなんの象徴かを理解しないと、絵の意味がわかりません。天使がたてている指の本数にも意味があるのです。
「きれいねー」じゃ、その絵を理解したことにまるでならないのです。
カトリックはキリスト教の秘教的な側面も引き継いでおり、悪魔払いのエクソシストはカトリックにしかいませんし、奇跡を認定する専門機関も持っています。
またメダイの話題の中心となるマリアを崇拝することも、カトリックならではの特徴です。
さて、メダイは1830年にフランスのカタリナ・ラブレという修道女の前にマリアが現れました。そのマリアは自分をモデルとしたメダルを作るように伝え、作られ始めたといいます。
メダイを大事にした人には次々と奇跡があらわれ、メダイは奇跡認定されているようです。
その奇跡の話だけを取り出し、日本ではメダイだけがあちこちで売られています。
長年、私はそれが不思議でした。
というのも、
神道のお守りは神主が神前で祓ったもの、
仏教のお守りはなんらかの手段(護摩壇の灰を墨にいれる、護摩壇の結界紐をいれる、仏の前に積み上げて拝むなど)で仏の力を入れたもの、
神符は開光処理という気を入れたもの、
陰陽師は直接札をもって御度を封じ込めるし、
私のところのパワーストーンはSE-5(波動測定器)でクリアにした後、調和のエネルギーを書き込む、
というように、お守りや神符というものはなんらかの力を入れる処理をすることが必須です。しなければ単なる紙や金属の物質にすぎません。
メダイは作っただけで効果があるとされているのだろうか?
ところが先日、バチカン市国を訪れて驚くべき発見をしました。
バチカン内でメダイが売られている唯一のショップはサンピエトロ大聖堂の横にあるお土産店です。ここではいくつかメダイが売られています。(写真のとおり、大人買いしました。。。)
しかし、よく巷で見かけるアルミ製の安いメダイはありません。
そもそもサンピエトロ大聖堂の周辺は特別に清浄なパワーが働いています。周囲には連日いろんな人種のいろんな人が訪れ座り込んだりしていますが、その雑多な淀んだ空気をまったくよせつけないことに、訪れた人は気づくことでしょう。必然的に聖別されます。
また周囲の店(イタリア領になりますが)を足を棒にして探しましたが、メダイは販売されていません。
フランスの発祥の地周辺では別だと思いますが、聖別された本物のメダイはおいそれと入手できないと考えてください。
信者はどうしているかというと、普通のメダイであれ信仰をもっており普段から身につけているものであるならば、神父が個別に祝福(聖別)しているのです。
つまり、日本国内で売られているメダイはほとんどなんの効果もないと言い切れます。
たとえそれが日本国内のホーリーショップで買ったとしてでもです。
(イタリアのクリスチャンと話を少ししたら、日本にカトリック信者がいると聞いてマジで驚いていました)
もちろん入手した後に、カトリックの教会に行き、神父に祝福してもらえば力をもちます。ただ神父は信者でない人には簡単にはしません。近所の教区ではそうでした。
このあたりは神父の考え方によるようで、してくれる神父もおられるようです。(伝聞)
余談ですが、ローマでもこういう絵を観光地ではない場所に信者は見に行くようです。
(仏教徒の私は出来の悪い通訳 orz)
護符、メダイ、お守り、どれもそれぞれのスピリチュアルな考え方の現れたものです。