運命学の運命の考え方
占いには運命学と卜占(ぼくせん)があります。
運命学は一生や年回りの傾向を見るものであり、卜占は特定のものごとの本質を見るものです。
運命学は、人生が動く時なのか、動かない時なのかを不思議なくらいに指摘します。動く時がどういう分野で起きるかは教えてくれます。
人 には、もって生まれた宿命というものがあります。学校で習う「人間は平等」という言葉は、他人の貧富、才能、親、外見、力を見た時に虚しいものです。無視 しては、その人の運命は語れません。小学校時代はアカ頭巾ちゃんが10人いようと、運動会で手を繋いでゴールしようと、そんなものは問題の先送りで、人生 という現場ではなんの説得力ももちません。人生という劇場に、人はそれぞれの道具立てのもとに生まれてくるのです。本人の考え方、周囲の環境、こういう舞 台装置のもとに人は生まれてきます。
多くの安い占いサービスが「あなたはこういう性格」といっているのは、舞台装置のひとつである、選択 時 の特性の一部を誤解して説明しているに過ぎません。そういう性格だから、どういう運命を歩むかはなにも説明していないです。そもそも性格は環境によって現 れ方が違います。とある中年男が会社の会議室では威張り散らして他人に責任をなすりつけるタイプであっても、家庭では恐ろしい奥さんの前で常に勤勉に動いてい るかも知れません。どちらも本質です。
正しい運命学は人の性格をいいあてることを目的とはしていません。そんなものは、会って話したほうがわかるに決まってます。運命とは関係ないです。
ま ともな命理占がいっているのは、例えば、「あなたは人を蹴落としてでも目的を達成する人だから、独立独歩の自営業をやるべきだ」とか「あなたはそつなくこ なし愛想もいいから、大組織で伸びる」とか、「家庭を大事にするほうだから、あまりえげつないことはできない」といった思考の癖ともいえる素質と、身の振 り方を環境、つまり職場、家庭、親族の間などにおいて説明しているのです。
そして奇妙なことに子供のころには違う素質であったはずなのに、長じると占いがいっているとおりになるのです。そして、中年以降も変化します。
私が鑑定していただいた紫微斗数の先生は、「あなたがキティちゃんだとしょう。ディズニーランドで人気が出ますか?どうあがいても無理でしょう。活躍の場はピューロランドなんですよ。」と端的に教えてくださいました。
このように運命学は可能性は示唆してくれます。が、なにもしないでいると可能性は具現化しません。そういうものなのです。
私は今まで多くの占い師に会いました。しかし、命占と卜占の違いを明確に理解している人、命占が告げていることがなにか明確な答えを出せる人はなかなかいませんでした。得るまでに何人の「実力がある」という占い師と会話したことでしょうか。いくら使ったかわかりません。
ほとんどの占い師は「運命とはなにか?」なんて考えておらず、先生から習った方法をなぞっているだけでした。そのくせ、「俺の占いは最強」などといいますから、的に当たるかどうか考えずに、ひたすら武器の増強に励んでいるようなものです。
運命学は自然の波を示す
運 命学は暦を陰陽、五行、干支に直し、強弱や組み合わせを架空の星にたとえ答えを算出します。「五行の強弱」というはなはだ怪しい根拠なのに、得る答えは驚 くべきものがあります。ひとつわかっているのは、季節と行動に密接な関係があることです。
それ以外は世の中の把握の方法としかいいようがありません。算出の方法自体、ほとんどが複雑怪奇。太古に天才の頭脳に閃いたとしかいいようがないもので す。
命占の本はたくさん市販されています。とくに紫微斗数は分かりやすく正確なので、初心者でもお勧めです。いきなりやっても、四柱推命の中上級者くらいの答えは出ます。
だから卜占を掲載しているのです
命理占で答えられない「彼氏とうまくいくか?」とか「この仕事でお金が入るか?」といった具体的な特定の事象への質問です。なぜならば、 好き になったり結婚したくなる人物像は描けても、運命学は傾向を示すにすぎず、特定の人とどうか?というのは答えようがないのです。生年月日を比べて相性を出す方法はあります。しかし、最 終的にどこまで踏み切るかは、時の流れもあるのです。
同様に「お金が入るか?」といっても、いくら金運のいい時期であっても、この仕事でお金が入るか、は別の話です。いいこともあればよくないこともあり、傾向としてよい、というのと、個別の出来事がうまくいくかどうかは違うことです。
「カレシとうまくいくのか」といった個別の問題の答えが欲しいでしょう。ですから、当サイトでは梅花心易や六壬神課を取り上げているのです。この分野を無料で占って答えを考察できるサイトはめったにないと思います。
なぜ自分でやることが大事かというと、命占も卜占も、出た卦を自分の状況にあてはめ、よりよく生きていく指標を作りだすことは、残念ながら自分自身しかいないからです。それは他人には話したくないでしょうし、知られないほうがいいのですよ。
卜占についても少し活用方法を説明します。当サイトでは完全自動梅花心易を提供しています。正直、当たるといっている人はとても多いのです。
易が示す自分の内面と外部の環境に、どういう価値を置くかはあなた次第なのです。
繰り返しになりますが、易で未来が占えるのは現状認識が正しく、そのままだとこうなるよ、というパターンを示しています。
まずは易が示している風景を素直に受け止めましょう。いきなり解釈に走ってはいけません。例えば、昨日、私はとあることで次の卦を得ました。
无妄「雨。嘘がない誠の状態」まさに雨が降っていました。誠をつくすには?と私は考えていました。それゆえ、この卦についての私の解釈は「思いは伝わっているから、なにもしなくてよい」というだけです。解説本の解説を読むほうがラクに思えますが、それは解説者が噛み砕きすぎており、自分と易が示すイマジネーションに解があることを捨ててしまいます。もったいないです。
さて、易の中には「元亨利貞」という言葉があちこちに出てきます。
もともとの易は原文を一度でもご覧になった方はおわかりいただけると思いますが、ものすごく短い文です。
おそらく竹などに文字を彫っていた時代を考えると、ダラダラとして文章を書ける状況になかったものと思われます。
にもかかわらず、なぜ元亨利貞という4文字が繰り返し出てくるのか。
おそらく、これが易の考えるあらゆる問題を解く鍵なのでしょう。
「元亨利貞」は「元(おお)いに亨(とお)る。貞(てい)に利(よろ)し」と読みます。
各々の意味は、
元:人のあるべき姿でいうと仁であり、人や物を愛することです。
亨:人のあるべき姿でいうと礼であり、万物が伸び、栄えることです。
貞:人のあるべき姿でいうと智であり、正しさ、法則を知ることです。
利:人のあるべき姿でいうと義であり、調和を得ることです。
もともと君子の振る舞いをいいますが、易はこれらがあれば、ほとんどの問題は解決する、と説いているのではないでしょうか。
もっとも解決しない場合があります。例えば四大難卦などは違うとは思います。
最後に運
じゃぁ運ってなんだと思います?「犬も歩けば棒にあたる」の棒のようなものが運だと思っていませんか?宝くじに当たる、とか、コカ・コーラの景品が当たる、とか、お金を拾った、とかいうものは棒のようなものじゃないでしょうか。起きたらそれっきり。
でも、みなさんが望む運って違うと思うんですが。だって「運」って「はこぶ」んじゃないでしょうか。
カレシができる、いい仕事が見つかる、継続的な金運、などは続いていくものです。
カレシはあなたの前に現れた時に生まれたわけじゃありません。ほぼ同時代(たぶん)に生まれ、育ったわけで継続性をもちます。いい仕事の環境はあなたの前 に現れた時、突然できたわけじゃありません。ずいぶん前からいろんな紆余曲折があり、あなたの仕事のポジションが空くのです。金運も一瞬だけじゃアテにな らないあぶく銭です。宝くじに当たった大半の人が元の木阿弥どころか前よりも悪くなるのはなぜでしょうか?
運とは、こういうイメージじゃないでしょうか。
世の中にはいろんなストーリーが流れています。ただ、今のあなたにはひとつのストーリーしか見えていません。左の絵で赤色しか見えていないようなものです。ここで別のストーリーを見つけ、乗ることができることが運なのです。運って字は運送などの運。
運に乗るということは、すでに流れている別のストーリーを発見し、適切な時期にかかわっていくことと、私は考えています。
大きくいえば命占で運が変化する時、つまり、別の流れにかかわる時はわかります。しかし、それがなんなのか、バシッと答えを出すものは存在しないのではないか、と思います。
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