無宗教の浅薄さ

「精神世界にはまっている妻をどうやって現実に戻すか」この質問に答えているのは、オウム真理教の映画を作った監督です。
オウムだけで、宗教や精神世界がわかったつもりになっているようです。「宗教とは反社会的なものだ」とか「死と正を転倒させるのが宗教の意味だ」とか、勝手に宗教を定義づけてしまった。。。

宗教とは人類と共に数千年存在します。その巨大な思想体系学ばずに断言することが、インターネット時代の特徴か、と。

文明発祥の地の都市はほとんどが宗教国家でした。それをどう説明するのでしょうか?

なぜこういう宗教の基礎すら知らないことが情報がいくらでもある現代に起きるのか?

それはあまりにも情報が共有されないからでしょう。
今の団塊の世代が学生のころは読まなければならない本(それが間違いだらけのマルクス経済学だとしても)やみんなが読む新聞がありました。多くの知識は共有されていたのです。

しかし、だんだんインターネットで知識はあふれているけれど、多くの人が共有している知識はどんどん減っています。新聞取らない人も多いし、20歳代なら必ず読んでいる本なんてありはしません。

各個人は自分に関心のある分野の知識だけをアップデートします。結果、他に存在しているものはないも同然となるのです。

スピリチュアルの知識なんてものもまさにそれだと思います。安直な星占いや石のお陰話、色つき水ボトルなどを始めとしスピリチュアルの中でももっとも粗悪なものを見て、スピリチュアル全体を乱暴に評価します。
それ以上、難しいものは知ろうともしません。

同様のことが、逆にスピリチュアルにディープにはまっている人にもいえるのですけれどね。科学のジャンルの進歩をチェックしないので、いまだに「百疋目の猿」なんていうデタラメを信じている人は多くいます。

現代スピリチュアルは明らかに宗教ではありません。
繰り返し、しつこく、あちらこちらに書きますが、現代スピリチュアルは、「個々の人は神の一部である。それゆえ神と直接会話できる。」と断言している時点で、神と仲介者がいなければ接触できないとする宗教を捨てています。

あえて宗教で似ているものは、グノーシス主義くらいでしょうか。

宗教やスピリチュアルの違いもわからないまま誰もがもっている心の問題だから、自分も心のスペシャリストだと思い込み、評価するのはなかなかさみしい行為です。
宗教もスピリチュアルもそれなりに心を見つめなければならないことで、それは訓練がいることなのです。
持っているから知っているならば、自分の体については医師より知っていることになります。
目に見えないだけに認めにくいことではあります。

さて、次に指摘するべきことは、ユングがいっているようなことからはじめます。

自分の内的な世界は、知らない人の想像以上に、とても、とても広い世界です。あなたの心臓を鼓動させているもの、生まれた時に誰にも教えられないまま乳首を吸った唇の動き。。。意識の光が届かない世界は、誰の中にでも広大に広がっているのです。
その広大な世界を旅する術(すべ)が真のスピリチュアルなのです。ユングは広大な内的世界には他者と共有している世界もあることだけは言い残して死にました。
どう旅すればいいのかは、彼も明確には答えがなかったようです。

私は瞑想をします。そこで宇宙の広大さを知ります。ごくたまに、他の人がいっている世界を見ることもあるので、まったくの自分だけの世界ではないことも知っています。

マヤ族が作り、かろうじて残った本に「チラム・バラムの書」というものがあります。これは麻薬を使ってチャネリングして書かれたものなのだそうです。
インディアンは青年になる儀式の中で、肉体を極限状態においてビジョンを見ねばなりません。それは精霊とのチャネリングです。
かように目に見えないスピリチュアルな存在との会話というものは、太古からなされ続けており、マヤ族では王がそれを聞き、インディアンは見たビジョンを生きることを推奨されました。「ビジョンを生きない者は死んだも同然だ」とすら言われていたのです。
シャーマニズムが現役だった時代、スピリチュアルは聖なる方法論でした。その方法を生きることは多くの困難、多くは理性との葛藤、を伴います

この手法は宗教でも一部の「神の代言者」には課せられた訓練でした。オルタードステイツ(トランス状態)に入り、内的な探求をする手法は世界中でさまざまな方法が発見され、練られ、発達しました。

それはやらなければ得られないからやるのです。
ひとつもやらずに頭で理屈だけで語っていることを理解したつもりになり、評価するのことは、自分ではトレーニングをしないのに、人が早く走れる理由について評論しているようなものです。

ここで、欧米の話をします。(高校の世界史程度の話ですから飛ばしてくれていいです)
最近、意外に知られていないのかも知れない、と思うからです。
ローマ帝国でキリスト教が国教となったのは392年のことでした。1077年にカノッサの屈辱(テレビ番組名になったせいか誤解が促進されている。フジテレビもよけいなことをしてくれたものだ)で教皇グレゴリウス7世は神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ四世を破門しました。
なぜ、これが歴史上の大事件として残っているかというと、教会から破門されたということはグレゴリウス7世の魂は永遠に救われない、と考えられたからです。当時は世俗と魂の問題は密接であったのです。
アメリカ建国の歴史のひとつとして、ピューリタン「キリスト教プロテスタント」がメイフラワー号でアメリカに移民しますが、これもプロテスタントが安住の地を求めたということです。
このように欧米では宗教と生活というものがとても密接であり、そこから多くの事件や文化が生まれました。

近代になり信仰がすたれてきたところでニーチェは「神は死んだ」と言うことになります。
それでも多くの事業家、研究者が神を信じながらも日々の生活をしています。

キリスト教にはキリスト教で表現されている神がいます。
研究者が自然を研究して見つける神は”Something Great”といわく言いがたい神です。
仏教には神はいません。(ゴータマ・シッダルタは解脱への道を説いた偉大なリーダーです。死ぬ前には「自らを灯明とし、自らを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなかれ」と言い残して亡くなったくらいです)
神道には八百万の神様がいます。
拝み屋さんがなじみの龍神やお稲荷さんといった神様もいます。

神様という言葉は自然、宗教、霊的存在などなどをひとくくりにした言葉です。

「宗教やスピリチュアルは、安易な現実逃避の逃げ」という浅薄な論評には苦笑いするしかありません。
確かにそうとしか取れないものも巷にはたくさんありますしね。
でも、違うものもあるのです。

それは頭で理解するものではなく、心で悟るものです。

私は宗教をもてとはいいません、スピリチュアルを学べともいいません。それぞれの人の魂の段階に応じて、求めるべき時があるからです。今、必要ない人は当然います。
必要ない時に興味本位にもとめても得られるものは少ないでしょう。

ただ、自分が無宗教であるといいきり、宗教とスピリチュアルを現実逃避と断言するということは、自分の内面をなにもわかっていない、頭だけで考えることがすべてであるというその人の考えを示している、という単なる事実を指摘するまでです。

投稿者: たかお

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